名古屋地方裁判所 平成7年(わ)39号 判決 1995年7月11日
主文
被告人に対し刑を免除する。
理由
(犯行に至る経緯)
被告人は、二度目の離婚後、最初の夫との間に生まれた長男とともに肩書住居の被告人方に住み、昼はコーヒー会社で贈答品製造のパートとして働き、昭和六二年四月ころからは、夜も名古屋市中川区内の居酒屋でアルバイト店員をしていたところ、そのころ右居酒屋の常連客であつたA(昭和二九年四月生)と知り合つた。Aとは野球を一緒に観戦に行くなどして交際を深めたのち、同年一〇月ころ被告人方で右長男を含め三人での生活を始めたが、右長男は平成元年ころ別居した。被告人は、当初、平穏な家庭生活を営んでいたが、Aが昭和六三年春ころから酒を飲んだ上些細なことで被告人に暴力を振るうようになり、また、嫉妬心や独占欲から、被告人が電話を架けたり、実家に帰つたりすることに関しても詮索するようになつた。このため、被告人は、平成二年初めころAに別れ話を持ち出したが、取り合つてもらえなかつた。平成三年になつて妊娠したが、Aとは早晩別れるつもりでいた被告人は中絶した。
Aの被告人に対する暴力は、平成四年に至りその回数が増えた上、ペテナイフをその首筋に当てたり、首を手で絞めたり、身体を持ち上げその上半身をベランダの外に出したりするなど、次第に増悪した。そのため被告人は、Aに二度にわたり、今度暴力を振るつたら出て行く旨の誓約書を書かせたが、約束を反故にされ、また、Aに、手切れ金一〇〇万円で別れたい旨提案しても、同人から逆に五〇〇万円要求されて、別れることができなかつた。被告人は、Aの暴力により負傷して、病院で治療を受けたことも数回あつたが、Aの言動から親族に危害を加えられることを恐れ、自分自身で解決すべき問題と考えていたこともあつて、自分の親族には一切相談しなかつた。また、Aの兄Bに相談しても、相手にしてもらえなかつた。かくて被告人は、何とか円満に別れたいと思いながら、Aとの同棲生活を続けていた。
Aは、平成六年夏ころから被害妄想気味となり、被告人が誰かと示し合わせて嫌がらせをしているものと疑い始め、同年一〇月上旬ころには、被告人を愛知県豊田市付近の山中に連れ出して、その身体を殴打、足蹴りにした上、ゴルフクラブ(パター)で背部を殴打した。そのため、被告人は、右背部挫傷、右肋骨骨折の疑いで通院加療を余儀なくされた。その上Aは、同月二三日、自動車購入資金を被告人の実家から都合するよう要求し、被告人がこれを拒否すると、被告人の顔面等を手拳で殴打する暴行を加えた。そこで被告人は、警察に保護を求め、同年一一月一日までの一〇日間ほど、警察の紹介で婦人相談所に身を寄せた。その間被告人は、Aの兄Cを交えて、今後の対応について話し合い、Aから「酒はもう飲まない、暴力は振るわない、もう一度チャンスをくれ」と懇願されたため、今後二か月間のAの態度を見ることとし、今までと変わらないのなら同人が出て行く旨を約束させて被告人方に戻つた。Aはその後約一か月間は、被告人に暴力を振るわなかつたが、同月終わりころから、被告人の右寄宿先を知りたがり、被告人の男関係を邪推し、被告人に対する暴力を再開し、勤務していた土木会社も同年一二月九日を最後に退社し、失業手当を受給し無為徒食していた。
(罪となるべき事実)
被告人は、平成六年一二月三一日午前一〇時三〇分ころ、肩書住居の被告人方四畳半間において、ビールや焼酎を飲んだAから、男関係を邪推され、「お前は二重人格だ、裏切られる者の気持ちを考えろ」と言われたので、「やつてもいないのに疑われるのがもつと辛い」と言い返した。すると、Aは、座つていた被告人に対し、手拳で顔面や頭部を数回殴打し、右足で腹部を蹴るなどの暴行を加え、その後も焼酎を飲み、被告人に男関係を詰問しながら、殴る蹴るの暴行を続けていたが、そのうち台所からペテナイフ(刃体の長さ約一二・八センチメートル、平成七年押第三三号の1)を持ち出し、被告人の右首筋に当てた。被告人は、Aの態度について、「今日は今までと違う、異常だ」と感じたため、玄関の方に走つて逃走を試みたが、玄関の板間辺りで、後ろからAに襟首を捕まえられて、四畳半間に引きずり戻された。Aは、被告人に対し「もうお前はどこにも逃げられない、お前の命も今日限りだ」と言つて、脇腹を蹴つたり、手拳で顔面を殴打するなどの暴行を加えた。被告人は不安を感じ、Aを脅すつもりで、敷居上に置いてあつた前記ペテナイフを取つたところ、Aは、「刺すなら、刺せ」と言いながら自分の布団の上に仰向けに寝て目を閉じたが、被告人は刺すまねをしただけでペテナイフを敷居の上に戻した。Aは再び、被告人を殴る蹴るし、被告人が顔を伏せて耐えていると、被告人の首を長袖シャツで二回巻いて絞めつけたため、被告人は気を失い、失禁した。被告人はやがて意識を取り戻し、ズボンとパンティーをはき替えたが、Aは、焼酎を飲み続け、被告人に手拳で殴るなどの暴行を加えた。思い余つた被告人は、半分は本気で刺す気もあつて再びペテナイフを取ると、Aは、「刺すなら、刺せ」と言つて布団の上に横になり目を閉じた後、「心臓は骨があるで、首を狙え」と言つた。被告人は、右ペテナイフをAの心臓付近に近づけたが、刺すことはできなかつた。Aは、被告人から右ペテナイフを取り上げて、タンスに投げつけ、再び被告人を殴る蹴るし、被告人が背中を丸めてうずくまつていると、ゴルフクラブ(四番ウッド)で被告人の背部及び後頭部を殴打した。被告人はこれら一連のAの暴行により、安静加療約一か月間を要する頭蓋骨線状骨折、左第一二肋骨骨折等の傷害を負つた。
被告人は、同日午後一時四八分ころ、右四畳半間において、度重なるAの暴力には我慢ができず、このままでは殺されるかもしれないと考え、自己の生命を防衛する目的と同時に激昂のあまり、Aを殺害することを決意し、目を閉じて仰向けに横たわつていたAの左側部から、同人の首の頚動脈に狙いを定め、前記ペテナイフで同人の頚部前面左部を一回突き刺し、よつて、そのころ、同所において、左頚部刺創による右内頚動脈切断により同人を失血死させて殺害したものであるが、被告人の右行為は急迫不正の侵害に対し自己の権利を防衛するため行つたもので、防衛の程度を超えたものである。
(証拠の標目)《略》
(正当防衛の主張に対する判断)
弁護人は、被告人の判示所為は、被告人がAの一連の暴行による生命侵害行為から自己の生命を防衛するために、Aを刺殺したものであるから、正当防衛に該当する旨主張するので、この点について判断する。
一 急迫不正の侵害の存否
Aは、被告人に対し、その首をシャツで巻いて絞めつけ、ゴルフクラブで頭部等を殴打するなどの暴行を加えているものの、ゴルフクラブによる攻撃の後約三分間は攻撃を加えておらず、被告人の刺殺行為時においても、布団の上に仰向けに横たわつて目を閉じていたことが認められるから、加害行為は一旦終了しており、急迫不正の侵害は存在していないかのような外観を呈している。
しかし、前掲各証拠によれば、以下の事実が認められる。すなわち、もともと酒乱の傾向があり、かつ、被害妄想状態にあつたといつてよいAは、飲酒しつつ何の落ち度もない被告人に対し理由もなく暴行を開始し、これを断続的に継続したこと、被告人がAを刺すまでの間、Aは、被告人がペテナイフを構えると、目を閉じ、布団の上に仰向けに横たわり、結局被告人が刺せずにいると、その度に、殴る蹴るの暴行を加えた上で(しかも、この暴行は普段より強力で執拗であつた)、一回目は首を絞め、二回目はゴルフクラブで後頭部を殴打するなどの生命侵害の危険性を伴う強度の暴行を加えたこと、Aは、暴行の途中で被告人に対し、「お前の命も今日限りだ」と言つていること、一升瓶にはまだ半分程の焼酎が残存しており、その酒乱ぶりが一層悪化するおそれがあつたこと。
そして、右事実にかんがみ、Aの一連の暴行を一体として全体的に考察すると、暴行そのものが一旦収まつていても、引き続きこれを反復する危険はなお現存していたものと言うべきであるから、Aの暴行による法益侵害が間近に押し迫つている状態、すなわち被告人の生命・身体に対する急迫不正の侵害は継続していたものと認めるのが相当である。
二 防衛の意思の有無
前掲各証拠によれば、被告人は、いよいよAの頚部を突き刺すに際し、これまでのAの度重なる約束違反や数々の暴行を思い出し、「あなたが悪いんだからね」と、憎悪の念も交えて殺害に及んだことが認められるものの、Aの暴行を断続的に受け続け、最終的にはゴルフクラブによる後頭部の殴打によつて「もう我慢できない。やらなきや、やられる」と思い詰め、Aに殺されないためには同人を殺害するしかないとの気持ちも併存して本件犯行に及んだことが明らかであるから、急迫不正の侵害を認識しこれを避けようとする意思、すなわち防衛の意思をもつて判示刺殺行為に及んだものと認定するのが相当である。
三 防衛行為の必要性・相当性
本件犯行は、前記認定のとおり、被告人が確定的殺意のもとに、目を閉じて横たわつていたAの頚部をペテナイフで一回突き刺し、その場でAを即死させたものである。
前掲各証拠によれば以下の事実、すなわち、当日被告人は、ペテナイフを首に突きつけられた後に一度逃走を試みた際、すぐにAに捕まり、暴行を受けていたこと、その後失禁して汚れた下着を玄関近くの洗濯機のところに持つて行つた際には、Aは四畳半間にそのまま居り、被告人の行動を邪魔した様子はなかつたこと、犯行当日玄関にチェーンはかけられておらず、玄関の鍵はロック部分を左右に作動させることにより容易に開閉可能であつたこと、犯行直前、Aは布団の上に横になつて目を閉じており、ゴルフクラブで殴打する侵害行為をしてから約三分間は積極的攻撃をしていなかつたこと、加えて、犯行前、被告人の生命に対して脅威を与えていた凶器であるゴルフクラブは、Aとは離れたところに位置する被告人側の布団の隅に置いてあり、被告人としては、容易に手にすることができたこと、ペテナイフについても、既に被告人の手中にあつたこと、Aは高校時代に空手をしていたなど、女性である被告人とは体力面で圧倒的な差が認められ、被告人もそれまでのAによる暴行のため、徐々に体力が低下してきていたこと、被告人も凶器を持てば、素手であり、攻撃態勢にも入つていないAと対等以上に渡り合えるはずであつたこと等が認められる。
ところで、本件犯行前、トイレに行くような素振りをして、玄関の方へ向かい、そのまま外へ出てAの攻撃を避けることが可能であつたか、右行為を被告人に期待することが相当であるか、さらには、その際Aが追つてきても、ゴルフクラブやペテナイフを手に、Aを脅かすなどして、逃走することは可能であつたか、右行為を被告人に期待することが相当であるかはともかくとして、右認定の事実関係のもとで、侵害行為の急迫性の程度も念頭に、被告人とAの年齢、性別、体力の相違、攻撃の緩急の程度等の具体的状況を総合的に考慮して、Aの頚部をペテナイフで刺突した被告人の防衛行為が社会通念に照らし客観的に適正妥当な防衛行為として容認されるかどうかを検討する。
確かに、侵害者に対するペテナイフの使用自体が防衛行為として是認される場合もあり得ようが、本件では、被告人の防衛行為は、Aの侵害行為を一時的にでもやめさせれば足り、そのため生命侵害の危険を避けるため、ペテナイフは身体の枢要部を避けて使用することを考えるべきであり、その後のAの反撃行為に対しては、被告人においてゴルフクラブやペテナイフを手にして、Aを脅かすなどして逃走し、あとは警察の手に委ねることも十分期待できたと考えられ、したがつて、今回被告人によつて選択された、人体の枢要部たる頚動脈に対するペテナイフによる刺突・殺害という手段は、社会通念に照らし客観的に適正妥当として容認される程度を逸脱したものであり、「已むことを得ざるに出でたる行為」の程度を超えていると言わざるを得ない。
以上の次第であるから、弁護人の主張は容れることができない。
(法令の適用)
罰条 平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法一九九条(有期懲役刑選択)
過剰防衛行為と刑の免除 同改正前の刑法三六条二項
(刑を免除した理由)
本件は、過剰防衛とはいえ、被害者Aに対して、確定的殺意を持つて、人体の枢要部である頚動脈をペテナイフで一回突き刺して、その場で即死させた事案であり、人の生命を奪つたという結果は重大である。
しかし右犯行は、酒乱で被害妄想状態にあつたといつてよいAが、飲酒しつつ、被告人に対し、断続的に、執拗で強度な暴行を加えたことが原因となつており、とりわけ、長袖シャツで首を絞めて失神・失禁させた上、ゴルフクラブで後頭部を殴打し、頭蓋骨線状骨折、左第一二肋骨骨折等安静加療約一か月間を要する傷害を負わせた暴行は、生命侵害の虞れが非常に高いものであつた。これまでにも被告人は、Aによる暴力のために、平成二年七月ころから同六年一〇月までの間に、肋骨や尺骨の骨折などで合計八回ほど医師の治療を受けることを余儀なくされており、相当ひどい暴力を受けていた。このような事情に加え、被告人とAとの間には相当な体力差があること、Aによる暴行は、さほど広いとはいえない被告人方居室内で行われており、被告人はここから逃れようとして一度失敗していること、今回の防衛行為(本件犯行)が失敗した場合には、Aからより一層生命侵害の危険性が高い暴行が加えられる虞れがあつたことなどからすると、これまで親族のためにもAとの円満な別れを願つて約束も交わし、数々の暴力にも耐えてきた被告人が、今回堰が切れたかのようにAを殺害してでも生命侵害の危機から脱出しようと思い詰めるに至つたことはよくよくのことと理解され、同情に値するものであり、いよいよAの頚部を突き刺すに際し、それまでの度重なる約束違反や長期間にわたる暴力を思い、鬱積した憎悪や憤激の感情があつたとしても、被告人を強く非難することはできない。加えて、被告人は犯行後直ちに一一〇番通報をして自首していること、被告人にはそれまでの暴力も含め、Aから暴力を受けることについて何らの責任も、責められるべき事情も見当たらないこと、被告人はAとの関係につき婦人相談所という公的機関を利用した上で清算しようとしていたのであり、安易に殺害という手段で解決を図つたわけではないこと、殺害方法についても、A自らが教示しており、被告人自身が考えついたものではないこと、被害者の親族も寛大な処分を望んでいること、被告人には前科・前歴はなく、被害者の暴力に耐え忍びながらも、本件犯行までは真面目な一社会人として生活してきたこと、社会復帰後も、既に成人した長男等の親族による援助も期待できることなどの事情を総合考慮すれば、被告人に対しては刑を免除するのが相当である。
よつて、刑訴法三三四条により主文のとおり判決する。
(検察官綿崎三千男、主任弁護人二宮純子公判出席)
(裁判長裁判官 油田弘佑 裁判官 土屋哲夫 裁判官 松岡幹生)